特集:そうだ、あの人に会いに行こう。 file:20 GLOBE SPECS・岡田哲哉さん【前編】

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思う存分 メガネトークがしてみたい!

そうだ、あの人に会いに行こう。

メガネのことは大好きだけど、それ以上にメガネの話をするのが好き。
そこで、これまでお世話になった人や、自分が好きな人に会いに行き、
思う存分“メガネトーク”をするインタビュー連載を始めました!

file : 20 | GLOBE SPECS 岡田哲哉さん【前編】

1969年、ウッドストックの年にNYへ移住!?
“VAN一色”な70年代の日本へリターン!

1998年、世界各国のアイウェアブランドを紹介するショップとしてオープンしたGLOBE SPECS(グローブスペックス)。「渋谷」と「代官山」という“ファッション偏差値”の高いエリアに店を構え、約20年間にわたり最先端のメガネを提案してきました。それだけでなく、Lunor(ルノア)、The Spectacle(ザ・スペクタクル)、Anne et Valentin(アン・バレンタイン)、Lesca LUNETIER(レスカルネティエ)といった、欧米ブランドの総代理店業も行っています。代表の岡田哲哉さんは、『GQ JAPAN』をはじめ、ファッション媒体が私服コーディネートにも注目するファッショニスタでもあります。


で、メガネ業界では“孤高の存在”というか、みんな岡田さんのことを知りたくても、なんとなく遠い存在でひるんでしまうというか……。と、このように僕の紹介文もいつになく堅いわけです(笑)。


「いや、たぶんみなさんが思っているイメージとは違うと思いますよ。わかりました、今日は洗いざらい全てお話しましょう」


おおっ!! よろしくお願いします! まずはメガネ業界に入った経緯をお聞きたしいのですが、たしかアメリカに住んでいた経験があるんですよね?


「ええ。小学4年生のときに父親の転勤で、NYで暮らすことになりました。ちょうどウッドストック・フェスティバルがはじまった年だったので、1969年でしょうか。当時はアメリカ中がベトナム戦争の反戦一色でヒッピーの時代。ドラッグが蔓延していて、みんなロンゲでタイダイのTシャツを着て、音楽もサイケなロックばかり。そんなものが、これまで田舎の山でサルみたいに暮らしていた少年に入ってきたので、もの凄いカルチャーギャップでした(笑)」


強烈なアメリカの洗礼ですね。にしても、ウッドストックから入る少年時代ってありますか? 一生使える武勇伝ですよ(笑)。先が気になります、それからそれから?


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伝説の野外フェス、ウッドストックの風景。『Woodstock 1969 the First Festival』より。藤井の私物。


「NYには中学生の頃まで住み、1972年に帰国しました。そのときに住んだ街が青山だったのですが、当時はアイビーブームで“VAN一色”。街を歩く人のほとんどがVANを着ていて、その後にビームスやシップスの1号店ができるなど、日本のファッションの新しい波を体験したんです。当時は都心の学校に通っていたので、学校が終わったらすぐに六本木。“六本木で部活”をする感じでしたね(笑)」


NYの次は日本のファッション最先端の地ですね。六本木の部活が気になるところですが、もしかして学生時代はヤンキーだったり?


「そういう連中もいましたが、そのなかにはおらず、どちらかというと“体育会ダンス部”といった感じで、いろんな学校の生徒が六本木に集まって踊っていました。私はずっとファッションの真っただ中にいましたが、うちの家系が凄く堅い家系というか、父親は政府系の機関に務めていて、まわりも弁護士などが多かったので、自分は仕事としては堅い職業につくと思っていたんです。そのとおり、学校を卒業して銀行に就職しました」


「ウェーイww」と安易にファッションの世界に進まないところがいいですね。一線を越えないというか。親の教育や育った環境が影響しているんでしょうね。


「そうだと思います。ただ、銀行に入って数字ばかりを追う仕事もぜんぜん合わないと気づいて(笑)。なにかファッションのフィールドで、“堅い側面”もある『中間の仕事』を模索したときに、メガネが浮かんだんです。メガネは視力補正などの堅い側面があり、かつ“顔の中心にくるもの”なので、これをファッションの方向にもっていけないかと考えたんです」


それ、いつ頃の話ですか?


「1982年だったかな」


メガネがぜんぜんファッションじゃない時代ッスね(笑)

80年代後半、NYのショップで
ラフォンやプロデザインを扱う。

噂で聞いたんですが、岡田さんが最初に務めたメガネ会社はイワキメガネ?


「いえいえ、いちばんにイワキさんのドアは叩いたのですが、当時は中途採用がなかったので“門前払い”されて(笑)。金鳳堂さんに入社しました。入ったものの、当時のメガネの世界はまったくファッションという感じじゃなくて……」


金鳳堂といえば、百貨店のイメージがあります。


「そうですね。伊勢丹と高島屋を担当したのですが、ファッションというよりも困っている人のための道具という感覚でした。『これちょっと難しいかもな』と思い始めたときに、金鳳堂さんのNYの支店に勤める話が決まったんです」


まさに青天の霹靂。ここに来て約15年ぶりにNYへ戻ってくるんですね。


「ええ。NYに着いたばかりのときは、ファッションの方向にメガネを向かわせることが難しそうだとも感じていたので、将来的に眼鏡学校の教員になることも考えて、“勉強の虫”になり、米国オプティシャンの資格取得などもしていました」


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1987年、NY時代の岡田さん。…………若い!


なるほど。アカデミックな方向からもメガネを極めたいとも考えたんですね。ちなみにお店はNYのどのあたりに?


「フィフス・アヴェニュー(5番街)に店がありました。向こうの賃貸契約は5年や10年と日本よりも長いのですが、80年代はあの通りが注目された時期なので、契約更新時に家賃が5倍にあがって(笑)。さすがに5倍は払えないので、通り2つ隔てたパーク・アベニューに移転することになったんです。とはいえ、フィフス・アヴェニューはツーリストがたくさん来るので、空き家の状態にしてはいけないという条例みたいなものもあって。元の店は10カ月ほど契約が残っていたので、契約が切れるまでの間は店を好きなようにやっていいと言ってもらったんです。NYでなにかチャレンジしたいと思っていたので『やった!』と思いましたね。ただ、視力検査するドクターは新しい店にうつったので、レンズは売らずにフレームとサングラスのみの販売でした」


お店ではどんなメガネを扱っていたんですか?


「ちょうどLAFONT(ラフォン)の人気がで始めた時期だったので、ラフォンとか」


おおっ! 偶然にも最近購入したのが80年代ヴィンテージのラフォン。まさにこんなモデルを扱っていたんですか?


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私物の80'sラフォン。ブランドのロゴは「JEAN LAFONT(ジャン・ラフォン)」なのだ。

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微妙にもっさりして味のあるコンビのクラウンパントゥ。


「そうです。ほかには、今は感じが変わったんですけど、デンマークのプロデザインとか」


あぁ〜! はいはい、プロデザインだ! 思い出しました。僕8年くらい前にグローブスペックスで昔のプロデザインを衝動買いしましたね! 半月タイプのシニアグラス。


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老眼はきてないのに衝動買いしたprodesign denmark(プロデザイン デンマーク)のシニアグラス。たしか90sだったか?

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ヒンジのデザインがミニマムでプロダクトデザインとしてのレベルが高い。


「ゲイル・スペンスがデザインしたモデルですよね。当時のプロデザインは才能あるデザイナーが集まったデザイン集団で、ゲイル・スペンス自身もロイヤルコペンハーゲンのキッチンウェアなどもデザインしていました」


それにしても、いま見てもびっくりするくらいトンがったセレクトですね。当時、日本ではアルマーニのメガネが出て話題になった頃で、メガネはテンプルにブランド名がついていたらファッションといわれた時代でした。


「でも、始めはぜんぜんお客さんが来なくて……。間口が狭いので一瞬で人が通り過ぎちゃうんです。まわりにはティファニーやバーニーズ ニューヨークなどのショップがあったので、店が終わった後に何時間も歩きまわって、ディスプレイを研究しました。で、店に帰って夜中までディスプレイをやる。向こうの人は真剣にウィンドウショッピングをするので、朝お店に来たときに指紋がついていると『見てくれたんだ』ってわかるんです。逆に、朝に指紋がついてないと次の日にはディスプレイを全部かえる。そして来店してくれたら似合うデザインの提案を徹底して行う。それを繰り返して行くうちに、お客さんが増え、遂には移転したお店の売り上げを追い抜いてしまったんです。このNYでの原体験が後のグローブスペックスにつながっています」


NY五番街のショーウィンドウで朝に指紋を見る……ドラマチックですね。映画化決定じゃないですか。その後、帰国した岡田さんはNYでの仕事が評価され、日本では店舗全体の企画や運営を行う経営陣に近いポジションに。


「NYの店は品揃えや提案、ディスプレイに焦点をあて、いかに喜んで満足してもらえるかを考えた結果、売り上げが倍増しました。同時に商品やサービスを提供して喜んでもらえるのが凄く楽しいということも経験できた。ところが、複数の店舗を見る立場というのは数字の管理が中心で、いかに売り上げや利益をあげて、損失を減らすかという世界だったのです」


つまり、出世したために現場が遠ざかってしまった?


「そうです。このままでは最初に抱いていたメガネをファッションとして面白い方向にもっていくのは無理だと思って、転職を決意しました」


それって何歳のときですか?


「29歳です」


若っ!

90年代、イワキメガネの社長室長に。
「リンドバーグをお願いします」

「転職を考えたときにメガネ業界でやるならイワキさん以外にないと思ったんです。イワキさんは、すべてはお客様のためにという理念でメガネの喜びや満足に注力していましたが、それは私がNYでやっていたこととも同じでした。それで、再び募集もしていないのにイワキさんに行ったんです。ふっふっふ」


え? また募集してないのにイワキさんに行ったんですか! かなりチャレンジングすね。


「ええ。案の定もう一度、『募集はしてません、中途は受け付けません』って言われましてね、ふっふっふ。それでもしつこく生意気に『必ず自分は役に立つ』って宣言して。そうしたら当時の社長さんと専務さんが『バカなヤツが乗り込んで来たな』と面接してくだることになって。そこでも『金鳳堂で働いているときはイワキさんを凌駕する会社にするつもりでやってました』って話をして。メチャクチャですよね。もし入社できなかったら別の業界に行こうとも思っていましたから。でも、その2時間後に『我が社に来てください』って連絡があったんです」


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捨て身の作戦が功をなしたんですね。1989年だから、イワキさんがアイメトリクスやポラリスなどをやり始めた頃で、時期的にもよかったかも。イワキさんでは社長室長というポジションについたとか。


「社長室長になって最初に言われたのが『リンドバーグをお願いします』。まだリンドバーグが4人くらいのメンバーでやっていた時代で、日本にも入っていませんでした。フレームもリムレスしかなくて、リンドバーグがなんなのかまったくわからなくて……。デンマーク大使館に連絡をしたら、建築家のアルネ・ヤコブセンの弟子たちがやっている事務所でつくっていると教えてもらったんです」


リンドバーグの「エアチタニウム」を開発した「ディッシング&ヴァイトリング建築事務所」ですね。彼らはヤコブセンのお弟子さんだったんだ!


「はい。当時、青山に彼らのオフィスがあったので足を運んだら、デンマークで話をしようとなってコペンハーゲンに行ったんです。そこでデンマークデザインのDNAというか、彼らが建築物や家具に対する考え方を叩き込まれました。私はデニッシュ・デザインが大好きになり、なんとかリンドバーグの魅力を日本に伝えたいと思い、グッドデザイン賞に募集したんです。今でも覚えていますが、事務所で仕事をしているとカタカタとFAXが届いて、Gマークの大賞に選定されましたと書いてあったんですよ!」


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リンドバーグがグッドデザイン賞の大賞を受賞したのは1992年。ちなみに次点はBMWの3シリーズだったとか。もちろん、メガネとしては初の大賞です。


ちなみに90年代前半といえば、日本ではツーポがブームになった時期だと思うんですが、それってリンドバーグの影響?


「その流れですね。そっくりのツーポイントが出ていましたから」


そうかー、自分のなかで点と点がつながりました。リンドバーグ以外にもヨーロッパのブランドに関わったんですか?


「はい。アイメトリクスやポラリスなどです。仕事で欧米諸国をまわっていると世界中にいいメガネ店があることがわかって、そのいい店をまとめるネットワークをつくりたいと思ったんです。NYならこの店、ロンドンならこの店と、インターナショナルな組織をつくり、世界中を旅している人に共通のサービスを提供したい。そして可能なら世界中の個々の地域の得意分野を活かしたコレクションの開発にもつなげたいと」


なんとも壮大な企画! メガネ業界の国際ネットワーク構築のために世界中をかけずりまわった岡田さん。多くの方の承諾を得て、ようやくカタチになるところまでいったけど、結局、実現することはなかったとか……。そして、この時期にイワキメガネも退職。


「会社を辞めてまず私がやったのが、世界中のメガネ店やブランドに足を運んで謝罪してまわることでした……。そうしたら欧米の店やブランドが『うちで働かないか』と、みなさん助けてくれると言ってくださって。ひと通り謝罪を終えてから、この後に何をしようかと考えました。たしか37歳のときですね」


世界中をまわる! 謝罪すらスケールがデカい(笑)。でも不安とかなかったんですか?


「そりゃありますよ(即答)。そのときに海外ブランドの代理人など、いろんな話が浮かびました。でも、私を助けてくれると言った人たちのいちばん役に立つことは何だろうかと考えたときに、日本にとどまって海外の人たちと日本を結びつける仕事だと思ったんです。同時に、自分がいちばん最初にやりたかった、『もっと眼鏡を面白くする』ことにも結びつく、と。世界中の人や商品を結びつけることにチャレンジしようと思い、グローブスペックスを立ち上げたんです」


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なるほど、グローブスペックスのグローブは「地球」だったんですね。で、スペックスはSPECTACLESの短縮語で「メガネ」の意味。そういう岡田さんの想いがこもっていたんですね。


なにが凄いかって、ここまで話を聞いてようやく1998年。ミレニアムはまだ来ていません! グローブスペックス誕生してからの話は後半に。ちょっとしたアクシデントもあるのでお楽しみに〜!

インタビューを終えて。

いやー、ウッドストックの話からガッツリハートを掴まれました。普段のジェントルぶりからは、あんなにアツくてチャレンジングな人だとはまったく思っていませんでした。今まで自分が見て来た岡田さんは“完成系”だったんですね。それにしても波瀾万丈すぎ。パイセン、半端ないっス……。

GLOBE SPECS 渋谷店

  • 住所|東京都渋谷区神南1-7-9 1F
  • 電話|03-5459-8377
  • 営業|11:00〜20:00 無休(年始を除く)
  • http://www.globespecs.co.jp/
GLOBE SPECS 渋谷店 イメージ

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